さよなら参加、また来て資格
ひとつの例として、ストリップ劇場。
ストリップ劇場に、行ってみたいと最近思っています。たまに行っているプールの帰り、通らなくても帰れるのにいつもストリップ劇場の前を通って帰ります。
染みの浮かんだコンクリートに、けばけばしい装飾、手書きでかかれた踊り子の名前。こうしたすべてが場末じみていて、独特の存在感があります。
こうした本物の存在感があると、なかなか入ることができず、いつも横目で見るだけで通り過ぎています。
「今度、ストリップに行ってみたい。」
と、友人や知り合いの間で話すのは簡単です。昔ほどではないにしろ、私もまだ若い方の人間です。そればかりが私の楽しみだとは、誰も思わないでしょう。多分。
なかには、しゃれのわかる、少しばかりの度胸のある人が、ストリップ劇場に入ることに成功します。そして、こういいます。
「こないだ、ストリップを見てきた。なかなか面白かった。すごい場末じみてて、おっさんとか、すごい、食い入るようで。」
とか。
そして、彼女に電話して、週末の約束を取り付け、デート。彼女にも同じ話をします。見た目だけで、腰の痛くなるようないすに腰掛けて、ミルクの入れすぎで味のわからないコーヒーを出すカフェ。禁煙。
ここが、落とし穴。と、思います。
違う、そうじゃない。と、思わないのでしょうか。
そんな客が、踊り子の裸を本気で喜ぶでしょうか。一歩外に出て、電話をかければ、自分のことを一生懸命に考えてくれる女の子に会える人が、ステージの上の裸を、本気で見られるでしょうか。
無理でしょう。心の余裕がある以上。
じゃあ、誰のためにステージがあって、その上に裸があるのかということになります。当然それは、もう「女性との接点」という観点では、絶望的な人たちのためにあるのだと思います。
ストリップ劇場で、われを忘れるために。
おそらく、反論はあるでしょう。「ストリップも芸術」とか、「なんでも経験するべし」とか。そういう劇場経営者もいるでしょう。ストリップファンも(実際テレビで見ました)。もちろん、踊り子さんも。
「芸術かどうかはわかりませんが、芸術であったにせよ、その出自は違ったでしょう。多くの芸術がその出発点が芸術でなかったように。」
などと、芸術論をかましたいわけではありません。理論武装など、いくらでもできますから。
要は、本気か、どうか。
やはり本気で見る人のためにストリップ劇場というのはあるのだと思いますし、自分の気持ちにまだ余裕があるうちは、「ひやかしで」ストリップに行くのは、やめたらどうかと。
すべては、本気で見る人のためにあるのであって、冷やかしだと自覚のあるうちは、止めておいたほうが先輩方に失礼がないのではと思うのです。
でも、気になるから、前は通りますが。
ストリップは、単なる例に過ぎなくて、これによく似たことはほかにもあると思っています。